KUMAちゃんのカレー弁当の日記

無水・無添加・グルテンフリー!身体がよろこぶカレー

⑦夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

7回目はKUMAちゃんのカレー弁当開業までの道のりのお話しです。

何気なく作り始めたカレー

最初に試作を作り始めたのはマンションを売却して団地に住み始めた頃でした。

 

今の食生活を始めてから市販のルーは使わない為、カレーを作っていなかったので食べたくなり、スパイスから作ろうと思った事が今のカレー弁当屋の始まりです。

 

スパイスカレーの作り方をネットで調べて、スーパーでスパイスを購入して作りました。

最初は全然美味しくできなかったです。

香りは良いけど味気無いカレーだったり、スパイスの実験のような事をしてキッチンが煙で充満してしまったりと上手くできない事ばかりでした。

 

すると普段料理をしない夫がカレー作りに興味を持ち始めました。

何かを始めると突き詰めて、熱心に調べる夫はネットで色々なスパイスを購入したり、様々な作り方を研究してカレーがどんどんと進化していきました。

 

物作りが好きで、真面目で手を抜かない夫には1から作るカレー作りは向いていたようです。

 

時には様々な手法で作ったカレーを目隠しをして味比べをしたり、突き詰める夫と❝大丈夫でしょ❞というゆるい感覚の私と温度差があり喧嘩になる事もありました。

 

カレーを商売にしたいと強く思ったきっかけの1つは、2020年9月に高知県黒潮町に遊びに来た時でした。

 

海が近くて開けた雰囲気の素敵な黒潮町でお店ができたら楽しそうだと想像しました。更に家賃の相場を友達から聞き、この夢は実現できる可能性のあるものだと感じましたが、まだこの時点ではお店をやるぞ!!と決断はしませんでした。

 

とりあえずお店をやるかやらないかは別として、ここに住みたいと思い八王子から移住をしてきました。(移住については以前のブログで書いています)

 

気持ちが定まらないまま

移住してからもお店はやりたいけど、農業もやってみたい、季節の仕事を点々と自由に暮らすのも良いな…等考えながらもカレーは作り続けていて、店舗探しもしていました。

 

店舗探しは色々な方に協力して頂きました。良さそうだなと思う所があれば友達の両親が聞いて回ってくれる事もありました。

 

自分の足でも探しに行き、ここが良いと思ったらその隣の家に突撃訪問をして情報収集をしました。突撃訪問をしても一切嫌な顔をせず、色々教えてくれたり、もっと情報をもっていそうな人を紹介してくれたり、相談する人相談する人皆が協力してくれて感動と驚きでした。

 

しかし空き物件は色々あったのですが条件が合わずこの時は借りられる所が見つかりませんでした。

 

そしてその頃夫の悪性リンパ腫が発覚し、夢は叶える事ができないと諦めました。

高額医療費制度があるとはいえ、毎月最低でも6~7万円はかかる医療費なので私は働く事にしました。

 

少し脱線した話しになるのですが、夫は悪性リンパ腫が発覚する約2年前位に、毎月3万円の保険に10年程入っていたのですが、いつ病気になるかもわからないのにこんなに払っているのはもったいない!!高額医療費制度もあるしと思い解約してしまっていたんです。

 

発覚した時はやめなきゃ良かったなと思いました。保険は難しいと思いました。

最初から払わないで毎月その分貯めておくのも手なのか、でも私にはそれは難しそうなど考えました。

 

高額医療費制度があってとても助かりましたが結局毎月6~7万円はかかるのでお金は結構必要なんですよね。

 

と、答えのない体験談のお話しです。

 

お話しを元に戻します。

私はある会社に雇って頂きました。皆優しく夫の事情も考慮して働き方を優遇して頂きました。

そして私はずっとここで働かせて頂く事になると考えていたのですが、治療を頑張っている夫は違っていました。

 

運命とタイミング

夫は私が驚く程前向きに考えていました。体力や腰の骨折を考えると農業系は難しいのでカレー弁当屋をやろうと。

 

ここで夢がカレー弁当屋に決定しました。

 

夫は入院中もカレーについて調べて、一時退院で帰ってきている時も副作用と戦いながらカレーを作って研究していました。

 

入院中には❝何で自分がこうなったのか❞、❝せっかく移住してきたのに何をしているんだろう❞と気分が落ち込む事もあり、抗がん剤の副作用で苦しみ落ち込む事もあり、そんな時には図書室で本を借りて読み、その本に背中を押されたそうです。

 

❝お探しものは図書室まで❞を読んでいたという事で、後に私も読みましたが確かに優しく背中を押してくれる本でした。

 

そして夫の治療も終盤になってきた頃に、友達のお母さんがあの場所はどうだろう?と声をかけてくれました。

 

それが今のお店です。

 

一度苦い経験をしているので家賃のお話しなど、しっかりと大家さんと話し合い、今のお店を借りる事に決めまたし。

決めるまでに2ヶ月位はかかりましたがその2か月の間に他に借りたいという方も現れず無事に借りる事ができました。

 

あのお店を借りるのは運命だったのかもと勝手に思っています。カレー屋をやりたい人に黄色い空き物件があるなんて、なかなかないお話しだと思うので(笑)

 

この時も友達のお母さんやそのお友達、沢山の人達が間に入って声をかけてくれたりと協力をしてくれました。

私達二人だけだったら今のお店はありませんでした。

 

夫の抗がん剤治療は終わっていますが、もうすぐ1年経つ今でも体調は元に戻っていません。そんな時には友達が心の支えになってくれました。

地元の友達や遠く離れた場所からでも声をかけてくれる両親や兄弟、友達。

せっかく雇って頂いたのに辞めると言った私を応援してくれる会社の人達の温かさ。

感謝の気持ちでいっぱいです。

 

夫の寛解が分かってからの12月~オープンの2月11日まであっという間でした。

 

必要な物を揃え、手続きをして、保健所に行き、青色申告の準備をし、カレーの研究も続け、オープンの日を決めとにかく考える事だらけでした。

宣伝については悩みました。昔ラーメン屋を始める時は新聞広告に掲載をしましたが、今はSNSの時代だと思い、広告は打たずInstagramFacebookで発信していきました。

カレー弁当屋オープン

オープンの日。前日はドキドキしてどうなるかと思いましたが、当日は沢山の人が来て下さり、友達や家族からは素敵なお花が沢山届き、とても良い初日を迎える事ができました。

オープン当日の準備中は無我夢中で記憶がありません(笑)

 

宣伝についてはSNSだけでも良いけれど、ポスティングをしても良かったかなと思いました。

SNSをやっていない方は来て頂くきっかけがなかなかできずらい様で、今でも地元の方で❝寄ってみたかったけどなかなか寄れなくて❞という方が多く来て下さいます。

 

そして今、半年以上が過ぎましたが、今でも日々カレーについて考え続けています。

まだまだ課題が沢山ありますが、皆様にまた行きたいと思ってもらえるお店を目指してこれからも頑張っていきます。

 

ここまで読んで頂いてありがとうございました。私達のカレー弁当屋をオープンするまでのお話しはここまでとなります。

 

またKUMAちゃんのカレー弁当が書ける話題ができましたらブログを更新するので、その時は是非読んで頂けたら嬉しいです。

 

 

 

 

⑥夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

前回は夫の抗がん剤治療を終えた所までお話しをさせて頂きました。

現在夫は月に1回の定期受診と半年に1回のPET-CTを撮っており、今のところ再発はなく安定して過ごせています。

 

今回(6回目)は、これは失敗した!!でもこれがあって今がある‼という仕事のお話しを2つ書きたいと思います。

 

・①ラーメン屋

昔、とんこつラーメン屋を経営していました。

やってみたいという勢いだけで始めた若気の至りといった感じです。

 

今から約20年前、海の近くに住みたいと思い千葉県の安房郡(現南房総市)に移住しました。

この頃から自分達で何かをやりたいと思っていて、何となくらーめんブーム(TOKIOさんの番組だったと思いますが、佐野らーめんの”らーめん道”とか環七も”なんでんかんでん”など有名店が並んでいました)だったし、らーめんが大好きだったので”らーめん屋”をやる事に決めました。

 

当時は今ほどインターネットを気軽に使う時代ではなかったので、有名ラーメン店の本などを購入し、自宅で半年ほど研究をしてお店を開く決意をしました。

 

ここでも周りの方々に沢山手助けして頂きました。今より遥かに人生経験の短い、無知な人間だったので沢山の方にご迷惑をかけたと思います。

 

そして沢山の方々の協力があり、海水浴でもサーフィンでも有名なポイントから徒歩2~3分程のとても素敵な場所にお店をオープンさせる事ができました。

ぼちぼちとお客様に来て頂けるようになっていきました。

 

しかし、濃いとんこつスープを作りたい!と、とにかく煮詰めて煮詰めて、チャーシューも美味しいものを!あれもこれもといった感じで材料費、光熱費ともに高くなり、コストがかかってしまいました。

 

そしてもう1つ苦しかったのは家賃です。とても良い場所だったのですが私達の収入では払っていくのが難しかったのです。

お店の家賃がひと月、85,000円。住んでるアパートの家賃が40,000円。

合計でひと月125,000円。

 

開業前資金では100万円程使い、業務用冷蔵庫等はローンで購入しました。

そして資金が底をつき、半年で店を閉めました。

たった半年間の幻のらーめん屋です(笑)

 

それまで貯めてきた貯金はほとんどなくなり、とりあえず帰ろう!という事で

夫の実家のある八王子へ帰る事になり、千葉県への移住生活は約2年で終えました。

 

たった2年間ではありましたが、この移住生活もらーめん屋も、とてもとても勉強になりました。

ラーメン屋を閉店後、何年間かはお店で流れていたBGMを聞きたくないと思うくらい、辛い思い出を引きずった時期もありましたが今は楽しい思い出、貴重な経験になっています。

 

そして皆様のお陰、この経験のお陰で今のカレー弁当屋は8月11日で半年を迎える事ができました!

たった半年ですがラーメン屋の記録を超える事ができてとても嬉しいです。

 

・②株、FX

私は一時、株やFXで生活はできないかと考えていました。

始めた当初はおもしろい位、上手くいっていたんです。ところが、そううまい事ばかりは続かなかったです。

 

何の知識や経験もないまま、自分なりに勉強したと思い、運用していた時に日本でコロナが流行し始め株価が下がるなどして利益がでずらくなっていきました。

 

FXでは”コツコツドカン”という言葉をよく聞いていましたが、私はそんな事あるのかなと思っていましたが、ありました。

自分がその経験をして”この事か”と実感しました。

 

株やFXは奥が深すぎてこのブログでは語りきれないので、あっさりとした内容になっていますが、私が思う事は”私には株とFXで生活をしていくのは難しい”という事と”損切りは必要だな”という事です。

これは私個人、素人の意見だと思って読んでください。

 

この経験で、私にはお金に働いてもらうより、自分が働く方が向いているなという事を発見しました!

この失敗をした事で夢は”自営業”か”農業”に絞られたので、この失敗をしていなかったら今のカレー弁当屋を始める事は無かったかな!!とポジティブに考えています。

 

そしてここまでお話しをしてきたお仕事は失敗談ですが、その他にも色々なお仕事を経験させてもらっています。

夫は配管屋や運送業スノーボードのインストラクターをやっていた事もあります。その他にも色々と。

私は介護を18年や古着屋に努めたり、その他にも色々と。

 

今までやってきた事で一つも無駄だった事はないと思っています。それ以上に一つでも欠けていたら今はないと思っています。

 

これからも、やっておけば良かったと思う事よりも、やってみて良かったと思える事が多い人生を目標にします。

 

今回もここまで読んで頂いてありがとうございました。

次回はカレーの研究を始めて~カレー弁当屋をオープンするまでの約2年間のお話しを書こうと思っています。

もし良かったら読んで下さい。

 

 

 

 

⑤夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

前回は移住して約2か月目でのstage4の悪性リンパ腫の宣告を受けたお話しをさせて頂きました。

5回目の今回は抗がん剤治療と強い副作用と戦った闘病生活について書きたいと思います。

 

☆リツキシマブ

6月28日に告知後に入院し、すぐに様々な検査をし、歯を抜歯したり首の細胞を

オペで採取したり、リザーバーというものをオペで入れたりと心身ともに疲れ果てた状態で7月7日に1クール目の抗がん剤治療が始まりました。

 

夫の悪性リンパ腫の種類が”びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫”だろうとの診断だった為、”リツキシマブ”という抗がん剤を投与する事になりました。

 

実はこの時もPET-CTの結果は悪性リンパ腫の症状だけど血液等ではハッキリ分からないと言われており”みこみ”でリツキシマブという抗がん剤投与を始めました。

(予想と違えば2クール目からは違う抗がん剤を投与する予定でした。)

 

はっきり分かるには他県の大きな病院に調べてもらわないと分からないとの事で1クール目の間に他県の病院で調べてもらい、治療が終わってから正確な診断が出ました。

予想通り”びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫”だったので苦しい1クール目の治療が無駄にならない結果となりました。

 

☆脳にも抗がん剤投与

夫の腰椎圧迫骨折の原因は悪性リンパ腫の腫瘍のせいでした。

 

その症状がもしかしたら脳にも腫瘍があるかもしれない、確率は低いけど。という事で脳にも抗がん剤を入れる事になりました。

 

脳に抗がん剤!?と最初は驚きました。説明を聞くとリスクが高そうだったので不安でした。でも脳に悪性リンパ腫があった場合は数か月で亡くなってしまうという話しを聞いていたので治療をするしかないと思いました。

というよりも選ぶ権利はないという位、先生の中では決定している感じでした。

 

そして抗がん剤を腰から注入したそうなんですが、これが激痛だったそうです。

 

4クール頑張って激痛に耐えましたが、あまりの痛さで先生に相談をして、その後は脳への投与をやめました。

 

痛みに強い方の夫が耐えられなかったのはよほどの痛みだったんだと思います。

 

 

☆副作用と戦う日々!

抗がん剤の副作用は辛かったようです。

ひとつは吐き気と嘔吐。

 

夫には生きていてほしい!という思いで私は必至にネットで色々な記事を読みました。

その中でとにかく何でも良いから食べて体力をつける事!と言っている人がいたので夫に”とにかく頑張って食べてね”と声をかけました。

 

1クールめの抗がん剤が投与された後、夫は食欲が無かったけれど私との約束を守らなくては!と思い食事を頑張って食べてくれたそうなんです。

 

でもそれが良くなかった様でその日の夜から2日間嘔吐、その後も何日間か吐き気が続きました。

相当しんどい思いをさせてしまい申し訳ない事を言ってしまったなと思いました。

 

2クール目もこんな思いをするのでは治療に耐えられない!という事で二人で作戦会議をしました。

抗がん剤投与の前は何も食べない!と。先生に相談したら人それぞれの副作用なので本人がそう言うならと、前夜と当日の朝は食止めをしてもらい、これが成功で吐き気はほとんどなく2クール目の治療ができました。

成功と言っても発熱、頭痛、倦怠感がありかなりしんどい様子でしたが。

 

今回の事でネットは色々教えてくれて沢山助けられていますが、何でもかんでも取り入れるのでなはく、自分に合ったものを自分で判断して、自分で選別していかなくてはいけないなと改めて思いました。

 

 



もう1つの副作用は脱毛です。

1クール目の治療が終わった時には脱毛が始まっており、夫は1クール目後の退院した時に自ら坊主にしていました。

 

髪や眉毛などは抗がん剤治療が終わってから約2ヶ月位で少しずつ生えてきて、その時は本人も私もとても喜びました。

 

とても不思議な事に治療前はストレートの硬い髪質だったのに、治療後に出てきた髪の毛はくせ毛の柔らかい髪質に変わっていました。

 

 

 

そしてもう1つは痺れです。

治療を始める前の説明では人によってはお箸が持てない位の痺れがでます。と聞いていました。

 

4クール目の投与までは何もなかったのですが、4クール目の投与から約1週間後に指先に痺れがでてきました。その後足にも痺れがでてきましたが、抗がん剤投与を中止する程の症状ではないとの事で最後まで治療を行いました。

 

指先の痺れは5か月程で無くなりましたが、足の痺れは今でも残っています。

他の人より長く残っていると言われましたが痺れが消えてくれる事を願っています。

 

 

☆予定より1ヶ月早く終わらせた治療と寛解

7月~始めた抗がん剤治療は当初の予定では12月末に全てが終わる予定でした。

 

身体への負担が大きく大変なため、4週に1回のペースで行う治療なのですが、先生の話しでは3週に1回のペースにして間を短くすると効果は大きいとの事でした。

 

しんどいけど早く終わらせたいし、どうせ治療するなら効果が大きい方が良いという事で夫は気合いで3週に1回のペースで治療を受けました。

 

頑張った結果、11月末に最終のPE-CTを撮り、悪性リンパ腫が消えています。と言われました。

予定より1ヶ月早く治療が終わりました。

 

結果を聞いた時は嬉しくて嬉しくて、笑顔と涙とでした。とにかく嬉しいしかなかったです。

病院の帰り道がこんなに嬉しい事はなかったです。

 

夫がこの病気になって思った事は食べ物を気をつけるだけではダメなんだと思いました。

もちろん、食べる物を気をつける事は大切だと今でも変わらず思っています。

食べ物を気をつけていたから、だから悪性リンパ腫も消えたと思っています。

 

ただ、メンタルと自分に合った健康方法を見つける事が必要だと。

 

夫は何でも考えすぎて悩む性格(私とは正反対)なので、引越しをする前は普通には考えられない位、悩んで落ち込んで不安になっていました。

素人の考えですが今回の病気はそれも大きく影響しているのではないかと思っています。

 

最近は考えたり、悩んだりし過ぎないように思考を変えているようです。

 

もう1つの原因はちゃんと勉強をせずに素人考えでファスティングをやった事かな、と思っています。

元々痩せていて太らない体質の夫がファスティングしたら、更に痩せるし栄養も足りなくなるのは当然だと病気になってから気が付きました。(正しい方法を知っている人は大丈夫なのかもしれないです)

 

病気が発覚した時の体重を見て驚きました。(我が家には体重計がなかった為測っていなかったんです)

 

身長186センチの夫の体重が57キロになっていました。

どんなに減っていても65キロだったので。

 

今は体重も戻りました。

 

これからも食べるものには気をつけて、食べ過ぎず食べなさすぎす、運動もして、心と身体の健康を考えていきたいと思っています。

 

今回も長いブログを読んで頂いてありがとうございます。

次回はカレー屋さんの開業にたどり着くまでを書こうと思っています。

読んで頂けたら嬉しいです。

 

 

 

 

④夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

いつもブログを読んで頂きありがとうございます。

今回は4回目のブログになります。

3回目は移住したいと思ったきっかけや住む家が決まっていないのに引越しを進めたお話しを書きました。

 

今回は移住して約2ヶ月で❝stage4の悪性リンパ腫❞が発覚したお話しです。

 

☆体調の違和感

高知に移住した矢先に夫の悪性リンパ腫が発覚しました。

4月から高知に在住し始めた頃は特に体調に変わりはありませんでした。

 

4月の中旬過ぎ頃から友達のお父さんがやっている❝らっきょう❞のお仕事の手伝いを始めて間もなく、夫が腰と手首の痛みの訴えと、度々疲れると言うようになってきました。

 

元々腰痛持ちだったし、手首も過去に怪我をしていた事と、慣れない土地で慣れない仕事をやっているから疲れるのだろうと思いそこまで気にかけていませんでした。

 

4月末からのゴールデンウィークには症状が悪化していましたが、雨の日が多かったので天候のせいかな、食べ物で何か栄養が足りていないのかな、と考えて自分達なりに考えた対処をしていました。

 

この頃、目の下の部分を返すと真っ白で貧血の症状らしきものがあり、気温は低くないのに寒いと言い、手足が常に冷たい状態でした。

 

そして5月7日、夜も眠れない程の腰、腹の痛みと発熱が。

 

翌日近所の病院へ行き、発熱があった為病院側はコロナ対応をして診察をしましたが、先生は即、これはコロナではない!!と判断をして触診等を行い、大きな病院で直ぐに検査を!!と言われ、紹介状を持ちそのまま大きな病院へ行きました。

 

☆何もわからず。

休日の救急診療で出来る検査は全てやりましたが、もっと精密に色々やらないと分からないという事で、そのまま入院になりました。

 

そして1週間の入院で血液から何から何まで全ての検査をしましたが❝何もわからない❞❝リンパの数は多いけれど、痛みや風邪でリンパの数が増える事もあるから、何故この症状なのかわからない❞と言われました。

 

腰痛もあったので、腰の検査もした所、腰の骨が1本だけ色が違うと言われ、その骨の組織を採取して検査しましたが❝わからない❞と言われました。

 

こんなにも分からないなんていう事があるのだろうか・・・と疑問に思い、1度退院させてもらいました。

 

☆原因不明の苦しみと戦う日々

退院後、約1ヶ月間は謎の痛みと倦怠感に耐え、夜には眠れない苦しみに耐えた日々でした。

食べ物のせいだろうかと身体に良さそうな物を食べてみたり、運動不足だろうかと浜辺を走ってみたり。

 

元々薬を飲むのが嫌いだった事と、薬を飲んで痛みや倦怠感を和らげてしまうと本当に悪い所や痛みの原因がわからなくなってしまう為薬はのみませんでした。

 

そしてこの頃から股関節の痛み、臀部の痛み、足の痺れ、身体がピキピキ痛む、熱が頻繁に出るようになりました。

 

☆もう一度病院へ。

症状はひどくなる一方だった為、もう一度病院へ行くことにしました。

 

唯一すすめられていてやっていなかった検査があった為です。

 

大腸検査だけはやらずに退院した為、もしかしたら大腸なのだろうかと最後の望みにかける思いでした。

 

腰も痛かったので腰のレントゲンも撮ってもらいました。

 

大腸検査は翌日の予約となったので、その日は腰のレントゲンだけ撮り、レントゲンの検査結果を聞くと❝腰は何でもないですね❞と言われました。

 

益々謎の痛みと痺れになりました。

 

そして翌日。

検査の為に病院へ行き診察室に入った時の先生の一言目が❝腰は大丈夫ですか?❞でした。

 

突然何でだろうと思ったら

❝腰椎を圧迫骨折しています❞と言われました。

衝撃の一言でした。

 

普通の生活をしていて48歳(当時)で圧迫骨折は余程の原因がないとありえない事のようで、先生は急を要すると言い、即大きな病院を紹介されました。

 

痛みの原因が判明したので症状が出始めてから約1ヶ月半で、やっと痛み止めを飲む事ができました。

 

この時は薬は飲みたくない、薬に頼りたくないなんて言っていられる状況ではありませんでした。

 

☆stage4の悪性リンパ腫の告知

3日後に紹介された病院でPETーCTを撮りました。

検査結果はその3日後に。

先生は緊急だとわかっていた様で、3日後の検査結果を聞きにくる時は入院の準備をしてくるように言われていました。

 

検査結果を聞きに行く日の前の夜は二人で号泣しました。

夫の身体で何が起きているのかはっきり分からないけれど重症である事はなんとなく気づいていたので、お互いに❝もう帰れないかも❞❝もう帰ってこないかも❞と思いました。

 

そして当日。

病院へ行き看護師さんに呼ばれて診察室へ。

始めて会う担当の先生と挨拶をし、椅子に腰をかけると検査結果の用紙を渡されました。

 

悪性リンパ腫stage4”と書いてありました。

 

心のどこかで、実は何でもなかった!という期待を持っていた為、用紙を見た時には頭と目の前が真っ白になり、頭が熱くなってクラクラする感じがあるのに冷や汗がでて、とにかく今まで経験をした事のない感覚でした。

 

夫は”俺死ぬんだ”とシンプルに思ったそうです。

 

でも担当の先生は穏やかで冷静に”今は悪性リンパ腫は治りますからね””一緒に頑張りましょう”と言ってくれました。

その後すぐに”50%の確率で”と付け加えました。

多分”治る”と断言してはいけないと思い、言い直したのかなと思います。

 

二人とも先生のその言葉に救われました。

薬が嫌とは言っていられない、これから夫婦で色々な楽しい事をするために

高知に来たのだから頑張ろうと。

移住して2ヶ月で全てを諦めるわけにはいかないと。

この先生なら信頼できると思いました。

 

この日から夫の抗がん剤闘病生活は始まりました。

 

長くなってしまう為、今回はここまでにさせて頂きます。

次回は抗がん剤の闘病生活を乗り越えたお話しを書きたいと思っています。

 

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

③夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

このブログでは私たちの夢を叶えるまでの道のりを書いています。

2回目の前回は”ローンの残っているマンションの売却と同居~別居まで”を書きました。

3回目の今回は、高知に移住する決断をするまでのお話しです。

 

☆東京を離れて、四国高知県へ移住を決断

 

・コロナでサーフィン生活が変化

私たちが移住をしたいと思った1つの理由はコロナで自由にサーフィンに行けなくなった事です。

サーフィンが大好きな私達は、コロナが流行る以前の休日の多くはサーフィンへ行っていました。首都高の大渋滞にはまりながら片道3時間(ひどい時は5時間の時も)、交通費とガソリン代で毎月10万円が飛んでいっても!サーフィン中心の生活をしていました。

 

しかし日本でコロナが流行りはじめて県外への移動自粛要請が出てしまった為、2020年の春頃から休みのたびに行っていたサーフィンにほとんど行けなくなってしまいました。

 

そしてひと時でしたが、コロナの緊急事態宣言が解除された時期に”とにかくどこかへ行きたい”と思い、高知へお邪魔する事にしました。3回目の高知です。

 

2011年に高知に初めて行ってから3回目にして初めて波が大当たりし、最高のサーフィンができ、相変わらずの高知の人達の温かいおもてなしに癒されました。

渋滞、人混み、コロナで少しピリピリした雰囲気に疲れ気味だった私達にはこの高知旅は心に刺さるものがありました。

 

この時に、黒潮町で管理している良い物件の話しを聞いて、住みたい!と思い東京に帰ってから入居者募集開始の日を待ち、11月に募集が始まってすぐに応募をしました。

 

 

・審査の結果がなかなかでなくて

私たちが応募した物件は町が審査をして住人を決定する物件でした。

11月に応募をして1月には結果が出る予定でしたが、1月には結果がでず、2月になってもでず。

 

その間には、本当に移住して大丈夫なのか不安になり何度も悩みました。

高知に引っ越してしまえば簡単には帰ってこられないし、大好きな家族や友人と離れるのはとても寂しいし、ダメならダメで早く言ってほしいと思った事もありました。

そうすればこのまま安定した環境で何事もなく過ごせると。

 

でもここでやりたい事をやらなければ、この先何かがあった時に”あの時高知に行っていれば” ”やりたい事をやっておけば良かった”と一生思い続ける事になるかもしれない、それならやるだけの事をやって後悔や満足をした方が良いと思い直しました。

 

そして3月15日。家が決まっていないのに第一回目の引っ越しを決行しました!

ひとまず友人の祖父母が住んでいた空き家に荷物を置かせてもらうことに。

 

朝一でトラックを借りて荷物を積み、東京を出発しそのまま高知へ。

翌日友人達が手伝ってくれてあっという間に荷物を下ろし。

そのまま東京へとんぼ返り。

 

レンタカーを返し、ヘトヘトで家に着くとポストに封筒が。

選考結果のお手紙でした。

ドキドキしながら封筒を開けると

 

”落選”・・・。

 

荷物運んでしまった・・・。

今住んでいる団地も3月いっぱいの退去手続きをとってしまった。

 

困ったなと思っていた所、ひとまず友人の祖父母が住んでいた家に居れば良いと言ってもらい、

 


住まわせてもらう事になりました。

そしてひとまずの予定でしたが、縁がありそのまま現在も住まわせてもらっています。

 

・私の両親、兄弟

3月30日、全ての荷物を車に積み、夫の母に”行ってきます”と挨拶をして、そのまま私の両親が住む川崎へ。

3月31日の朝に両親に”行ってきます”と挨拶をして高知に向けて出発しました。

 

ずっと近くで両親に甘えさせてもらっていたので、離れるのがとてもとても寂しかったです。

本当だったら近くに住んで孫の顔を見せてあげなくてはいけないのに、孫の顔も見せてあげられない上に遠くに引っ越してしまう事が本当に申し訳ないと思いました。

 

それでも両親は優しく見守ってくれました。両親には本当に感謝しています。

きっと私達には解らない、親にしかわからない心の葛藤があったと思っています。

 

そして私の兄弟にも感謝しています。兄が二人、両親の近くに居てくれているから私は高知に来られたと思っています。

 

・友人

高知に移住するのに友人達の力なくして移住はできませんでした。

 

2011年、初めて高知に来て、高知で初めて立ち寄った海が黒潮町の入野海岸でした。

2月の真冬の寒い海で何もわからない私たちは、軽トラで来て海を見ている1人の男の子が居たので話しかけてみたんです。

 

それが始まりでした。その友人から彼女(今の奥さん)、更にその友人と輪が広がり、皆が協力してくれました。

そして今も、いつも仲間でいてくれている事に感謝しています。私達二人では絶対にここまで来られませんでした。

 

ここまで出会ってきた人、これから出会う人、一人ひとりとの出会いを大切にしていきたいと思っています。

 

今回もここまで読んで頂いてありがとうございました。

次回も頑張って書くので読んで頂けたら嬉しいです。

 

 

 

②夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

このブログは私たちの夢を叶えるまでの道のりを書いており、1回目の前回はKUMAちゃんのカレー弁当のコンセプトが生まれるきっかけとなった出来事を書きました。

2回目の今回はここ無くして今は無いと言える位の大きな決断をしたお話しです。

 

☆ローンの残っていたマンションの売却と同居していた夫の母との別居

今から約15年前に夫は69歳まで、私は62歳まで払い続ける35年ローンで新築マンションを購入しました。そしてマンション購入と同時に夫の母との同居を始めました。

 

・同居の難しさを実感

同居を始める前はそれなりに仲の良い関係でしたが、一緒に住むと様々な価値観の違いが出てきました。

 

朝の起きる時間、キッチンの使い方や使う時間、帰宅時間、お風呂に入る時間、就寝時間、休みの日の過ごし方など違う事がいっぱいでした。私達親子があまりにも違いすぎたのかもしれませんが、この様に書き出してみるとほぼ全てですね*1

 

三者三様の意見があり、沢山ぶつかり合いました!母と私、母と夫、夫と私がぶつかる事も。

 

ぶつかり合いの先には、なるべく接点を持たないようにしようとする様になりました。

 

そんな事を繰り返しながら同居生活を続けて13年。

 

・別居

同居生活13年目にしてやっと、このまま一緒に住むのはお互いに良い事はないし難しいと思い、母に別々に住もうと相談すると母も承諾してくれました。

 

13年経つ前にも何度か考えた事はありましたが、引越し、お金、ローン、世間体色々な事を考えると動けず、やっと決断した事でした。

 

私たちは新築マンションから団地へ。

母も同じ団地の別の棟へ。

別居をした事で母とは関係の修復ができて一緒にご飯を食べたり、出かけたりするようになりました。

ことわざにある”スープの冷めない距離”とは本当にちょうど良い距離なんだなと思いました。

 

・ローンの残っているマンションの売却を始めた途端のコロナ!

別居と同時にすすめたのがマンションの売却です。

 

ローンローンで一生懸命働くのはもうやめたいな、とずっと思ってはいましたが、いざ手放すとなると13年間頑張って払ってきたので少し惜しい気持ちになりました。

 

でも売るしかないので手続きをして売りに出した所、10月に掲載して翌年の2月頭には買い手が見つかり、ほっと一安心。

と!安心したのもつかの間で日本でコロナがまん延し始めたのです。

2020年の2月です。

 

不動産売買では”買います!”と言ってから1か月間はキャンセルができるようで、コロナが初めて日本に来て今以上に不安と恐怖で、移動や人との接触を避ける人が多くなり始めている時だったので、もしかしたらキャンセルになってしまうかも…と不安で仕方なかったです。

 

キャンセルになればローンと家賃のダブル出費がまだ続いてしまう!と思っていましたが、ありがたい事に無事に購入して頂けました。

 

沢山の不動産屋さんが来てくれる為どこに頼んで良いかわからなかったので、直観で”この人にお願いしたい”という方にお願いをした所、スムーズに売却ができたので良かったです。

 

働きながらのマンション売却と2件分の引越し!!13年動けなかったのに、動き始めたらあっという間でした。

 

・母は。


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私達は団地には約1年半住み、そして高知に移住してきました。

 

夫は母に、高知に一緒に!!と声をかけましたが母は行かないという決断をし、今でも団地で暮らしています。

まったく1人だったら母を残したまま移住は難しかったかもしれないと思いますが、今は夫の兄夫婦が同市内に住んでいます。

 

同居をした事はマイナスな面ばかりではなく、自分の成長にも繋がり良い経験だったと思っています。そしてマンション売却もこの先する事は無いと思うので、一生に一度の良い経験でした。

 

今のここまで来るのに、関わってもらった数え切れない位の人達に助けられてきたと思っています。もちろん、高知に来てからも含めて。

 

感謝の気持ちでいっぱいです!!

 

今回はこの辺りで終わりにしたいと思います。

読んで頂いてありがとうございました(*^^*)

次回も是非読んで頂けたら嬉しいです(*^^*)

 

*1:+_+

夫婦の夢だったカレー弁当屋を開業するまでの道のり~今の食生活との出会い、ローンの残っていたマンションを手放してから移住の決断まで、移住した矢先のstage4の悪性リンパ腫の発覚、夢を叶えた開業~

私達は令和4年2月、高知県黒潮町に素材にこだわったカレー弁当屋をオープンしました。夫婦でお店を営むという長年の夢を、東京から移住して高知県で叶える事ができました。

高知県幡多郡黒潮町上田の口946 KUMAちゃんのカレー弁当



ここまで来るには沢山の良い事もありましたし、沢山の苦悩もありました。沢山の勇気も必要でした。

この経験をブログに書く事で、今悩んでいる人や前向きに何かを計画している人達の役に立てたら嬉しいと思っています。

全てを一度でお伝えするのは難しい為、少しづつ書いていくので、お付き合い頂けたら幸いです。

 

☆こだわりの食生活になったはじまり*1

私達は無添加グルテンフリーの他にも、塩は完全天日塩を使用し砂糖は摂取せず、甘みははちみつで補ったりとその他にも、調味料や食材に気を付けています。

しかし、ずっと前からこの様な食生活をしていたわけではなく、始めたのは約4年前位です。

 

東京都八王子出身の夫は現在49歳、私は神奈川県川崎出身の42歳、子供はいない夫婦です。

1年前に高知県に移住してくるまでは夫の出身地である八王子に在住していました。

 

・体調不良

今から約15年前、溶接の仕事をしていた夫は皮膚のただれ、かゆみの疾患の症状がでてきて、その症状は全身の皮膚の柔らかい部分全てに出てきてしまい、かゆみは24時間365日と言ってよい位ひどい症状でした。

皮膚科に行って、飲み薬、塗り薬を処方されても夫の症状には効果が無く、アレルギーを調べてもほうれん草やマグロといったもので、私たちが日常で口にしているものはほとんどありませんでした。

 

またその1~2年後には運悪く、生ものに当たってしまい、入院をしたのです。

そしてその食中毒がきっかけとなり、毎日と言って良いほどお腹を壊す日々が続きました。

外に行けばトイレの心配があるので外食も消極的になり、外出外食の際は整腸剤等が無ければ不安で出られない程でした。

 

この頃には夫は転職して運送会社の配達員をしていましたが、朝は早く、夜は遅く、お腹の調子も悪く、皮膚の状態も最悪と負のスパイラルで心身ともにボロボロでした。

 

・運命を変える1本の電話



そんな生活をしていたある日、1本の電話がありました。

10年以上連絡がとれなかった夫の友人からでした。ここが大きな転機でした。

そして友人と会う事になりました。

 

久しぶりに会った友人は、当時私達は聞いた事がなかった”ファスティング”という話しを聞かせてくれたのですが、久しぶりに会った友人のこの話しは怪しすぎる!と最初は思って話しを聞いていました。(今思えばなんと失礼なと反省です)

 

しかしその後、ファスティングの事を調べているうちに、健康維持に効果のある食生活に関連する情報がどんどんと入ってくる様になり興味が沸いてきたのです。

そして食生活改善をやろう!という決めては”皇帝塩”という塩を購入した時に付録で付いてきた2冊の添加物と塩の本でした。

 

 

これを読んで、即決断しました。私たちの夫婦の価値観には添加物が恐ろしいと思えました。

そして気になっていたグルテンフリーも同時に試みてみる事にしました。

(パン星人と言われる位パンが好きな夫なので)

 

・辛かった症状の改善

食生活改善を始めてお腹の調子はすぐに良くなり、お腹を壊すことが無くなりました。

肌も良い方向に向かっている事がわかりました。

約1年後には何年も苦しんでいた皮膚のただれはすっかり良くなりました。

 

私にも変化は現れました。

便秘をしなくなり、10代から悩んでいた吹き出物が出なくなりました。

私達にはこの食生活改善が合っていた様です。

これだけの結果が出た為、私たちは現在の食生活を続ける事を決めました。

 

・追い込みすぎは逆に不健康

ただこの生活で何よりも困った事が、外出をした時に気軽に食べられる物を見つけるのが大変になったのです。

朝家を出てから夜の帰宅まで何も食べない事もありました。

これは正直、苦痛で、楽しくないし、辛いだけだったので、自分たちのルールを少し緩める事にしました。

 

今この世の中はおいしい食べ物が溢れているし、味も知ってしまっているので

全てがダメ!では無く何を食べたかを把握する事が大切だと思っています。

 

なので私たちは、たまには外食もしますし、パンも食べますし、麺類も、甘いものを食べる事もあります。

そして、自分たちの食生活のルール外の物を食べた後は調整をしています。

 

無理をしていた時はお世話になっていた方に”健康のための不健康にならないように”と言われていました。

確かに食生活も大切ですが、心の安定も大切だと思っています。食生活だけでは健康の維持は難しいと、後々気が付く事になります。

この事についてはまた別の時に書きたいと思います。

 

それにしてもこの方は何か未来が見えていたのか…と思う事があります。

移住した今でも気にかけて応援してくれています。

 

私たちの今の食生活が始まったいきさつについては以上となります。

 

・素材にこだわったカレー弁当の誕生

そして今、できる限りのこだわりを持って、多くの方に安心して召し上がって頂ける食事を提供したい!というコンセプトのカレー弁当屋を営んでいます。

なぜカレーなのかは、単純にカレーが好き!という理由です(笑)

 

ここまでの拙い文章を読んで頂きありがとうございました。

ここまでの人生の道のりはほどほどに波乱万丈であったと自分では思っています。

今後も少しづつ語っていこうと思っておりますので、また宜しくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

*1:ここ無くしては今はなかった